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福島ロータリークラブ ≪例会≫
例会日:平成16年3月25日(木) 12:30〜 
例会場:ホテル辰巳屋8F 
会長あいさつ 03-04年度 福島RC会長 草野 武夫
3月23日は福島ロータリークラブの創立記念日です。「昭和26年3月23日(金)」の当日どんなことがあったのか、翌24日付の朝刊を見てみました。歴史上に残るような出来事はありませんでしたが、読売新聞一面トップの見出しに“米空挺隊降下、共産軍六万袋の鼠”とありました。朝鮮戦争の真っただ中だったんですね。社会面は殺人、心中、火事など、現在とあまり変わりはないようです。一方、福島民報の一面トップは“首相、マ元帥・シ局長と会談”とあり、当時の吉田首相が起草中の講和条約について話しあった様子が載っています。社会面(三面)には“人身売買”“赤痢の流行”“米の横流し”など、当時の県内の世相がかいま見られる記事が載っています。残念ながら“福島ロータリークラブ創立”の記事は見あたりませんでした。折に触れ、今日はどんな日であったか調べてみるのも一興かと思います。何か分かるかも知れません。
<<直前ガバナースピーチ>>「福島ロータリークラブ創立記念にあたり」 阿久津 肇
直前ガバナー阿久津様  ロータリーは、来年2005年に創立100周年を迎えます。そのために様々なイベントが行われる予定であります。しかし、一方でこれを機会にロータリーの原点を振り返り、ロータリー誕生の経緯を探ることもまた意義のあることと考えます。原点に帰るとは、その原点を作り出した心情に思いを致すことであります。
 初期とは漠然とした言葉でありますが、今日お話しするのは、1905年2月23日のロータリー創立から1923年セントルイス国際大会で決議23〜34が提案されるまでの期間を考えています。
  ロータリーの発端について話をするには、創始者ポール・ハリスの生い立ちに触れなければなりませんが、時間の関係で極く簡単に申し上げます。
  生まれはウィスコンシン州ラシーンで、3歳の時父親が破産したため一家は四散し、妹は母親と共にラシーンに残り、ポールは兄のセシルと父親の実家ニューイングランド地方のバーモント州ウォリングフォードに移住しました。幸いにニューイングランド地方の勤勉、質素な生活態度を祖父母から教えられ、さらに祖母の愛情と躾が彼の人生にいかに強い影響を与えたかは、彼の追想をみても容易に理解出来ます。
  「われわれが長い年月を顧みれば、ある時には重要だと考えたことも、大したことではなく消え失せることが多いものである。しかし、それほど重要だと思わなかったもので、返って他のことなどはどうでもよいと思わせるほど極めて重要になるものもある。犠牲、献身、名誉、真実、熱意、愛ーこれらは、良い旧式な家庭の素朴で高潔な特質である」と言っています。
  バーモント州ブラック・リバーアカデミーを卒業し、18才でプリンストン大学に入学し、卒業後一時、故郷の会社に勤めましたが、一年で退職し、アイオワ州立大学法学部に入学しました。その時当時新興都市であったシカゴに2、3日滞在し、そこでバーモント州では見られない文明、そして悪徳と犯罪の横行する町を目の当たりにし、この都市に対する関心が植え付けられ、これが後日シカゴに住む一つの契機となったと言われています。
  1891年に卒業し、弁護士資格を得たポールは、直ちに開業することもなく、もっと人生について広い経験を得るために5年間放浪の旅に出ました。経済的に恵まれなかったので、生活費は各地で稼ぐことにしました。この5年間はアメリカ各地はもとよりイギリス、キューバ、フランス、イタリア、オーストリア、ドイツ、オランダ、ベルギーを廻っています。このようにいろいろな地方や国に長期間にわたった旅行は、強い印象を与え、人類がその伝統と慣習の違いから様々な思索と制度をもつものであるが、その根本は善意と友情に支えられていることを知ったのであります。 スピーチ風景   このようにして5年間の放浪生活を終えた後シカゴで弁護士を開業しますが、喧噪のマンモス都市の中で、孤独感に苛まれていたようであります。そうした孤独なポールにとって画期的な出来事が起こったのは1900年のある夕刻のことでありました。ポールは友人の弁護士から夕食に誘われ、食事の後友人と連れだって散歩に出ましたが、友人は途中で色々な商店を訪ね、主人と親しく挨拶を交わし、勿論ポールをも紹介してくれたのですが、この時ポールの頭の中に一つの漠然としたアイデアが浮かんだと言われます。それは職業上の交友と家族的友愛的交友とを併せた親睦団体であるクラブを作り、職業人がそこで友愛の精神をもって互いに助け合うことは出来ないかというものであります。
  この考え方を5年間温めた末、1905年2月23日にシカゴのディアボーン街のユニティビル711号室にあった鉱山技師ガスタバス・ローアの事務所(この部屋は今も保存されている)で、その他2人の友人、石炭商人のシルベスタ・シール、洋反物商ハイラム・ショーレに打ち明けました。そしてこのクラブには実業に携わる者だけでなく、法律家、医師、宗教家、報道人といった専門職業の者たちの加入も考慮に入れることを提案したのです。このようにして、実質上の目的を会員間の「職業上の相互扶助」つまりそれぞれの会員の職業を理解し合い、その企業上の諸問題に会員相互の衆知を集めて助け合うことに置きました。会員相互の職業を充分に理解し合うために、例会場を各会員の職場を順番に持ち回りで開催することにし、この持ち回りにすることでロータリーと名付けたのであります。2週間後の3月9日に第2回の例会を開き、会員数を増やすことを約しました。3月9日までに2名の会員が入会しました。即ち印刷業のハリー・ラグルスと不動産業のウィリアム・ジェンセンであります。そして3月23日第3回の例会でシルベスター・シールを初代会長に任命しました。
  さて当時のシカゴとはどんなところであったのでしょうか。もともとヨーロッパからやって来た移民が西部へと流れて行くときの中継基地が当時のディアボーン町といいました。その後シカゴと名前を変えて今日に至っていますが、南北戦争後将来極めて有望な新興都市へと発達していきました。ところが1870年10月10日の火事で全市が焼尽に帰し、さらに19世紀の終末に開催された万国博覧会の後に不況が続き、人々は未曾有の生活苦にあえいでいました。小売商人は卸先への支払いを、卸売り商人は製造元への支払いを怠りました。当時のシカゴの実界についてポールは、「こうした逆転に出会った初期の実業家は、当時としては相当に高い道徳水準を維持していたにも拘わらず、たちまちこれを放擲して一般的な奪い合いに参加していった。サービス第一、自己第二の標語の如きは、淡き月影ほども認められず、自己を守ることのみに専念た」と言っています。「商売に情けは無用」「商売と友情は両立しない」などは当時「はやりことば」であったらしい。
  このような時代であったので、最初の4人もその後に仲間に加わった人たちも皆「親睦」「友愛」を大切にしました。彼らは広漠たるシカゴ社会の砂漠の中のオアシスを発見し、それを占有したのであります。   1906年1月に制定されたロータリーの最初の綱領は、次の2カ条であります。

  第1条 会員の事業上の利益を促進すること
   第2条 性質として社交クラブに伴う親睦、その他望ましい諸点を振興すること

  職業人である彼らが最初に考えていた「会員の事業上の利益」というのは、いわゆる「会員の相互扶助」であり、石炭が欲しい時には、会員の石炭屋から買おう、洋服を作る時には、会員の仕立屋に頼もう、しかもなるべく安価で、というのであります。即ち「物質的な相互扶助」であり、クラブでは、Statistician(統計を取る人)という役職を設けて例会と例会との間でどのくらいの会員間の取引が行われたかが報告されました。そのうち会員同士が次第に親しくなると自分の企業経営の相談事をクラブに持ち込み、皆が衆知を集めてその解決策を考える、いわゆる「精神的相互扶助」が行われるようになったのです。
   1906年2月アルバート・ホワイトが第2代会長に選ばれましたが、彼は自分の友人で弁理士(Patent Attorney)のドナルド・カーターにクラブ入会を勧め、ロータリーの相互扶助について説明したところ、カーターは、即座に入会を断った。その理由は、「この種の活動は、クラブ内部の利益支援に過ぎないのであって、対社会的な意義が欠けている。このような活動だけに終始するクラブは将来性がないし、また意義も認められない」と言うのであります。ポールはこの報告を受けて深く考え、この意見を勘案して直ちに定款改訂を提案し、綱領第3条として次の事項を追加しました。

  第3条 シカゴ市の利益を推進し、その市民の中に市に対する誇りと忠誠の精神を普及すること

  ロータリーは、ここに初めて漠然とではあるが、社会的目的を自覚するに至りました。このことは、ロータリーの発展史上極めて重要な事柄であります。即ち会員同志が、定期的に集まって相互扶助、物質的な取引、精神的な相談をやることは、会員以外の他の人々にも援助の手を差し伸べる機会を生むことになることに気づき、それは畢竟世のため、人のため、社会のためであると悟ったのであります。このように漫然ではあるが「世のため、人のために」という概念がロータリーに取入れられてからは、クラブの空気が次第に変わり、物質的な相互扶助は付随的なもので、本質は「精神的な相談」「親睦」「対社会的な目的の追求」であるとし、初期の「物質的な相互扶助」の原則は次第に脱落するに至りました。そして会員以外の一般に対する思いやりに変化していきました。この理念の採用こそロータリーの存続性を確保し、その後の驚異的な拡大を確定的なものにしたのであります。ポールは「ロータリーの理想と友愛」の中で「ロータリーの進歩は、概して漸進的であり、よく秩序正しい連絡を保って行われたのであった。しかしその顕著なる発展の歴史には、ロータリーの復興とも称すべき大変革即ち“ロータリーの目的と理想の上に一大拡張が行われた”時期が含まれている。希望を更新し、目的を充実し、視野を拡大したロータリーの更生は、ロータリー運動の歴史上最も大きな波瀾だった」と言っています。 
image   1907年2月ポールは第3代会長に就任します。彼は自他ともに認めているクラブの創設者でありながら、なぜ創立後3年になるまで会長にならなかったのか。ポールは彼自身創立直後の会長になることを嫌っていたらしく、むしろ舞台裏にあって周りの人たちを説得しながらクラブを後押しすることに努力したのです。しかし、会員数が80名以上になっては、最早クラブを後押しするよりも前に回ってクラブをリードしていく必要を考え、会長に就任しました。
 ポールは、会長就任の時に当面の活動計画として次の3項目を選びました。

   (1)シカゴロータリークラブの発展
   (2)奉仕クラブという発想をニューヨークやサンフランシスコなど他の都市に拡げていくこと
   (3)社会奉仕の考え方をロータリーに取り入れること

  ポールの会長就任前は、クラブの活動は主として会員相互の取引の基盤に友情、親睦を結びつけていましたが、ポールは「会員の事業上の利益を促進すること」だけでなく、今後は「対社会的目的」達成のため実践活動をやるべきだと考えました。会員の中にはこの方向転換に反対する者もいましたが、彼は志を曲げることなく自ら定めた目標達成に根気よく努めたのであります。1907年から1910年までの3年間は、シカゴクラブは、まさにこの「奉仕派」と「親睦派」の争いに終始し、一時クラブ分裂の危機があったと言われています。
  1908年という年は、ポールにとって記念すべき年で1月にチェスレー・R・ペリーとアーサー・F・シェルドンの2人を会員として迎え入れました。「国際ロータリー」という名称は、1922年につけられましたが、チェスレーは1942年まで事務総長をつとめた人であります。ポールは「ロータリー運動の成功について私に帰せられている功績の多くの部分は、チェスに帰せられるべきものであると信ずる。私自身のなしたる多少の寄与も、もしこの協力者の不撓の熱意に助けられることがなかったならば出来なかった」と著書「ロータリーの理想と友愛」のなかで述懐しています。そして「もし真実私が設計者と呼ばれ得るとすれば、チェスは確かにロータリーの建築家である」とも言っています。一方アーサー・F・シェルドンは、販売学の大家でその理論によれば、「商取引というものは、売り手、買い手の双方の満足なくしては成り立たない。長期的に商売を成立させるためには、売り手と買い手の間に信頼関係が確立しなければならない。即ち「信用」が必須であると説きました。これを「最も良く奉仕する者最も多く報いられる He Profits Most Who Serves Best」という言葉で表わしたのであります。ロータリーにおける奉仕概念の確立です。1908年にポールは、本格的にロータリー運動を全米に拡大する活動に着手したことは、先程触れましたが、そのために拡大宣伝委員会を設け、委員長にシェルドンを任命しました。シェルドンは、拡大の可能性を調査し、例会で熱心に報告しましたが、かえって親睦派の反感を買い、委員長を解任されてしまいます。ポールも2期目の会長就任を健康不良を理由に辞退したため、クラブの混乱は深刻になった。シェルドンの後任についたのはチェスレーで、彼はシカゴクラブの活動として拡大を計る事を諦め、対立の火種となる拡大や奉仕理念の追求を別の組織に移し、その組織の元で次第に数を増やしつつあるクラブを一元的に管理し、シカゴクラブもその一構成員とする連合会を作ろうとした。しかし、最初シカゴクラブは、その配下につくことを拒否しましたが後にはその一員となった、というエピソードがあります。
スピーチ風景  1910年8月、シカゴのコングレスホテルに全米から16クラブ、60名が集まり、チェスレーが議長となって「全米ロータリークラブ連合会」が発足しました。ポールが初代会長に、チェスレーが事務総長に選ばれました。これが後の「国際ロータリー」の前身であります。
 1911年8月ポートランドで第2回全米ロータリークラブ連合会が開催され、シェルドンの「最も良く奉仕する者最も多く報いられる He Profits Most Who Serves Best」が発表されました。さらにこの大会で、ミネアポリスロータリークラブ会長フランク・コリンズが「ロータリークラブにおいて為すべきことが一つある。自己のためにロータリーに入会した者は、間違った会員であり、ロータリーは自己のためではない。ミネアポリスクラブが採択し、その創立以来一貫して採ってきた原則は、“奉仕だ、自己ではない Service, Not Se1f”ということである」とスピーチすると熱狂的な歓声が上がったと言われています。しかし、後になり Service, Not Se1f という表現はおかしいとクレームがつきました。というのはこの標語は、自己を否定し、奉仕を行うことを説いている。しかし、自己なくして何で奉仕が出来るだろうか。自己を正しく発展させ、自己が充実すれば、奉仕も正しく発展させることが出来るし、また充実させることが出来る。だから“自己ではない”という表現は適当でない。ということで誰言うとなく「Service, Above Se1f 超我の奉仕」となりました。
  1912年の大会には、カナダからも参加者があり、名称が「ロータリークラブ国際連合会 The Internationa1 Association of Rotary C1ubs」と改められました。
  1921年の国際大会は、初めてアメリカを離れスコットランドのエジンバラで開催されました。この大会にポールは次のようなメッセージを寄せています。「すべてのロータリアンにとって、1921年の大会は大きな意味をもっている。多くの人たちにとってこの大会は、分岐点のように思われるだろう。昨日までロータリーはこどもだった。今日ロータリーは、力強くそして熱意をこめて大人の世界へと足を踏み出したのである」。翌1922年ロサンゼルス国際大会で「ロータリークラブ国際連合会」はその名称を「国際ロータリー Rotary International RI」と改められました。
 初期の1912年以降の社会奉仕活動の主流は、身体障害児対策でありました。その頃よりロータリークラブは、先を争うように身体障害児対策に乗り出し、オハイオ州エリリアクラブのエドガー・アレンが国際身体障害児協会を設立するところまで世界的な広がりを見せました。しかし、身体障害児対策が盛んになるにつれ、奉仕活動の実践や財政的負担を巡って論争が起きてきました。即ちロータリーは、一業種一人の原則の上に職業倫理向上のためクラブ活動を行うことを目的とする団体であるから、社会奉仕を行うについても、その許容範囲は極めて限られたものであり、あくまで各個人の奉仕が原則である、と主張する理論派と、片やロータリーが奉仕クラブであるならば、社会的救済を求めている者に対して直接クラブの名において救済を行わないでどうして奉仕を口にすることが出来ようか、という実践派との意見の対立であります。この問題はロータリーが抱えた史上最大の論争であり、一時はロータリーの分裂の危機を孕んだのであります。この二つの対立を解消したのが1923年セントルイス大会に提出されたいわゆる決議23-34であります。
  その論旨は、各ロータリークラブは、奉仕活動を行うにあたっては、完全に自主独立性を有すること、集団的に行う社会奉仕は、個人奉仕の実習として意義があるというものであります。これに基づいてロータリークラブは、会員個人として社会奉仕を行っても、団体行動として行ってもよいことが確立されたのであります。玉虫色であることは否定出来ませんが一応の解決を見ました。ポールはこの決議に対して「1923年セントルイス大会の会期中にクライマックスは来た。その時決議34号という記念すべき一大決議は、席捲するが如くにあらゆる分裂の危険性を解消したのであった。この決議は、一方において個々のクラブに対し事業上の完全な自治を認めるとともに、他方において一つの行動が他の行動を無視すべきでないことを厳に戒告したのであった。まことにこれは相拮抗する諸勢力を協調させた最も聡明で時機を得た決議であって、これによって始めて当時鬱屈した空気を清掃し得たのである」
例会時に配布された2枚の資料   このようにロータリーの歴史を見ると私たちの先輩は、ロータリーの世界に常に異質なるものを内包ただひたすらその調和を模索して来ました。即ち親睦と奉仕、利己と利他、宗教と実業倫理、など。そして試行錯誤を重ねながらも決議23-34をはじめ幾多の優れた原理原則を開発し、それを私たちに残してくれているのであります。これらは、先輩たちの知恵の結晶であります。私たちは先輩たちがこれらを開発していった時に、彼らが何を考えていたのか、その心を訪ねてみなければならないと思うのであります。そして私たちにはその心を正しく理解し、その心を現在のロータリーに正しく適用し、その上その心を次の世代のロータリアンに伝えていく義務と責任があると思うのであります。

〜今週号は私が編集長〜 (3/25例会)  西河 肇 会員
西河肇会員
 今年の桜の開花予想は例年より早い見込み。しかし、このところの寒さで桜の蕾も困っている様子。異常な気象は農作物にとっても困ります。海の中のお魚にも影響があるようです。昨年のような冷夏にならないよう心から祈っております。

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