25年前、私が入社したのは電電公社でしたが、7年くらいで民営化でNTTという会社に変わりました。そしてわずか20数年でまた会社が分かれ、東日本電信電話(株)という会社に変わりました。
昔は、電話を申し込んでも順番待ちで随分時間がかかりました。これを解消することと交換手を介さずダイヤル直通というのが、電電公社時代の二大目標で、私が入社した53年は「二大目標悲願達成の年」でした。その後、今のようなマルチメディアというような洒落たカタカナはなかったので、非電話、ファックスなどの普通の電話ではないサービスをやっていこうという時代でした。
ここ10年は営業の肩書きが取れませんが、私は技術屋として無線の技術を担当しました。今は、光ファイバーで通信をつないでいますが、昭和50年当時は光ファイバーはなかったのです。遠い町に電話をつなぐためにテレビに使うような同軸ケーブルとマイクロ波という無線を使っていました。光ファイバーが出てきてからはほとんど置き換わっています。今は無線というと携帯電話のようなイメージがありますが、当時は電話機と電話機をつないでいくマイクロ波が主流でした。
60年代にNTTの時代に入り、公共企業体から民間になり、いろいろな意味で合理化と近代的な業務運営が必要になり、アメリカではコンピュータは利用技術の進展が早かったので、とても技術が追いつかないと思ったこともありますが、コンピュータが小型化して、以前の技術をベースにする必要がなくなり、何となく遅れていたものも少しカバーしてもらったということもございます。
平成4年に神戸勤務になりました。当時はインターネットの黎明期のような時代で、大学の先生や研究者など一部の方々だけで細々としていたネットワークが、アメリカの学生が開発したソフトウェアで、今のホームページのようなものが使えるようになったのです。
しかし、当初は今のような有用なものになるとは考えられませんでしたが、アッという間に使われるようになってきました。
平成7年1月17日に地震になり、当時、新聞などで社会インフラという言葉が一般用語になりましたが、混乱した状況の中で、電話が使えるということが非常に大事だということを入社以来初めて経験しました。ただ身贔屓のようですが、NTTとかJRさんなどの復旧は早かったと思います。私も電話復旧に当たっていましたが、JRさんや通信事業にかかわってこられた方々は、いろいろな経験を積んでおられますから、指示が出る前、最初の一月くらいの間に手が打てたのだと思います。
福島へ来て、各自治体の地域情報ネットワークの整備のお手伝いをしております。そんな中で、小学校の生徒さんたちと、中学校の生徒さんたちの笑顔が、ディスプレイに広がった瞬間、それまで、硬い顔をして回りで見ている人達の顔々が、みんな笑顔に変わります。光サービスで結んだ笑顔は、本当にリアルで、時代の進歩を感じさせます。
学生時代はワンダーフォーゲルにいて山歩きをしましたが、最近はスケールが落ちました。早く暖かくなって福島の山を散策するのが楽しみです。時間と元手がかからないいい趣味だと思っております。
ポピュラーミュージックも好きですが、最近は、昔好きだった歌手たちがアメリカで昔のような声で元気に歌っていて、コンサート会場で録音したものなどがインターネットにあったりして、聴けるという意味ではいい時代になったと思います。
家庭は女房と娘3人。一番下がようやく高校生になり、新体操に燃えています。本人はオリンピックに行くと、頑張っています。親もそうなってほしいと、少し親バカでいようと思っています。
こんな人間ですが、よろしくお願いいたします。