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福島ロータリークラブ≪追悼例会≫
例会日:平成15年1月30日(木) 12:30〜 
例会場:ホテル辰巳屋8F 
≪今週のことば≫『3氏誕生の「大正10年代」を偲ぶ』  河田 亨 会長
 ロータリーの始祖ポール・ハリス氏は1947年1月27日亡くなった。そのためRIは27日をはさむ1週間を「ロータリー追悼週間」と決めており、当クラブでは今日30日が「追悼例会」である。

 私たちはこの1年、卓越したリーダー3人を失った。田中善六氏(T11.5.15生)、渡辺正之氏(T15.9.16生)、鈴木守氏(T15.11.16生)。ともに会長経験者で、田中氏はガバナーをも務められた。

 本日は、遺族の方々にもご出席を頂き、3氏の業績を偲び、ご冥福を祈るわけだが、この機会に、3氏が生まれた大正10年代はどういう5年間だったかを、振り返ってみたい。そうした気持ちになったのは、渡辺氏が生前、病魔と戦いながら、『明治大正医事ノート』という700ページに及ぶ立派な本を出版されたからである。この本は医療現場のことだけでなく、社会情勢、文化さらに物価など資料をたんねんに分析、記述されている。従って、氏の本やマスコミの記録などを参考にしながら、大正10年代を回顧するのも3氏の追悼にふさわしいと思っている。

 「大正デモクラシー」「大正ロマン」――明治以来の文明開化がすっかり根づき、日本全土で“自由”を謳歌、たくましく飛躍したのが、この時代だった。政党政治はしばしば政争、騒乱を巻き起こしたが、「普通選挙」の実現(大正14)で政治への国民の関心は高まった。労働運動も活発で、ストに軍隊が出動することもあった。

 一方、パリ・モードが初めて紹介され(大正11)、山野千枝子が丸ビルに美容院を開設(大正12)したのをきっかけにモダンガール(モガ)の断髪、造花の髪飾りが大流行、ハンドバッグが普及した。男性の洋服が実用化し、女学生のセーラー服も全国に広がった。

 文壇もにぎやかだった。芥川龍之介、久米正雄、志賀直哉らが競って新作を発表、「文芸春秋」が菊地寛らによって12年1月に創刊され、既刊の「新潮」に対抗した。

 そんな折、関東大震災が12年9月発生する。死者9万9千人余。東京・横浜は壊滅状態。東京には戒厳令が発せられた。しかし、国民は復興に雄々しく立ち上がり、短期の復活は世界を驚かした。

 福島のマチも変わった。鈴木氏が学んだ官立の福島高商(現福大経済学部)は大正11年の開校、東北唯一だった。日本銀行福島支店はこれより先、明治44年に東北のトップを切って開設されており、「福島は経済・金融のマチ」と称された。日東紡が福島に本社・工場を創業したのも14年だった。

 福島・飯坂間電車の開通は13年。電車には若い5人の女性車掌が交代で乗務(15年)、全国に話題を巻いた。
 また、当時、福島第1の美観は隈畔に架けられた鉄橋の松齢橋(14年完成)だったとの記録もある。

田中善六PGを偲んで≫ 『田中さんの思い出』  中村 忠司 会員
 彼とは旧制中学からのお付き合いで、その頃から私を忠ちゃんと呼んでいた。昨年、四十九日の法要の席で須美子夫人から次のようなお話をお聞きした。昔、彼と話してたとき夫人が何気なく「忠ちゃん」と云ったら彼が忠ちゃんというのは俺だけが云う呼び名だからあんたは云うなと「叱られました」ということであった。こういう話は返答に窮する。頭を下げて有り難うと云うしかない。

 告別式のとき弔辞の中で触れたが「あんたはおれより先に死ぬなよ」と私に云ったということは、その後私なりにひとつの推論を得ている。私は平成10年10月に白岩先生から前立腺癌の告知を受けていた。幸い転移はなかったので白岩、加藤両先生のおかげで今も安泰に過ごしているが、当時告知を受けたあと田中さんには報告しておこうと考えて彼に話した。そのあとの夜間例会のときに「おれより先に死ぬなよ」という裏返しの表現で私の身を案じてくれたのではなかったろうか。大体時期的にも辻褄が合うのだ。だとすればそういう逆説的な表現で私を励ましてくれたということに彼の厚い友情を感じざるを得ない。このような友に出会えたことは人生の幸せである。彼の友情に報いることが十分にできなかったことを恥じる。

 田中さん、鈴木守さんと私の三人は同じ年の同じ日に一緒に入会した同期生だが、お二人はあっというまに慌ただしくこの世を去られ、いちばん役に立たない私だけが残ってしまった。軍歌「戦友」の歌詞の中に「思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて…」という一節があって、八十歳を過ぎた私には文字通りの実感をともなって胸にこたえるものがある。

渡辺正之 元会長を偲んで≫ 『甘辛の二刀流…』  金子與志雄 会員
 仏事の時に「故人のご遺徳を偲びご冥福をお祈り致します。」という言葉が多く使われます。辞書で調べましたら、遺徳とは現世に残した優れた功績、思い出、冥福とは冥土、あの世での幸せのことです。つまり、故人の現世に残された功績、思い出を偲び、あの世での幸せをお祈りするということとなります。それでは、正之先生のロータリーでのご遺徳を偲びます。

 12月9日、月曜日の朝の事、正之先生から電話を頂きました。「明日、退院するようになったので、今日、病院(日赤病院)に遊びに来い。」とのことでした。午後まで待たせては悪いと思い、午前中、11時頃にお邪魔しました。何か食べて頂くものをと思い、酒かな、とは思いましたが、病院のことでもあるし、「以前に甘い物も食べる二刀流だ、昔は二本松の石衣をよく食べたもんだ。」と言われたのを思い出し、石衣を市内の菓子屋に探しました。お稲荷さんの西の通り、「文化通り」のところにありました。にこにこ顔にて受け取って頂きました。そして、30分ぐらいお話頂いたり、申し上げたり致しました。

 頂いた話は、万が一の時の式のやり方、弔辞、役割等々、話されました。「なお、このことはメモにして、小林忠道君に渡してあるから。」とのこと。そして、ロータリーの思い出話を楽しまれました。私も思いつくままに、思い出話を申し上げました。幹事を2年務められたこととか、東京例会を始められたこと。「もっと、もっといろいろとやったよ。そのことは、メモにして大関くんに渡してあるから。」とのことでした。

 昼食の配膳もありましたので、「先生、話は以上ですか?」「そうだ」「話したいことを話されて清々したでしょう」「そうだな」「また来ますからね。元気になってください」と、お別れしました。その時は顔色も良かったし、話も明晰でありましたので、お元気になられると思っておりました。その日から25日後の1月3日に亡くなられました。

 以上、渡辺正之先生のご遺徳を偲び、ご冥福をお祈りいたしまして、終わります。ありがとうございました。

鈴木 守 元会長を偲んで≫ 『「正之先生お別れ会」の夜に』  村井 千昭 会員
 渡辺正之先生を追うように、鈴木守先生が亡くなられましたことは、まことに突然のことでありました。なぜ、その日になくなられたのでしょう。目の前の現実を 受け入れることに精いっぱいでした。今もって、自分を納得させることができず、深く悲しい気持ちでおります。幾年か前、鈴木守会長の幹事職でした、大槻隆英会員から、私は声をかけられたことがあります。「村井先生、小児科先生に、あまりお酒を勧めないでください。」腑に落ちないお話ですが、「わかりました。」と聞いておりました。正之先生に私がロータリーの入会をお勧めいただいた時、「ロータリーは、何をすればよろしいでしょう。」と申し上げたら、「そりゃ村井くん、親睦だよ。親睦は酒だ。」とおっしゃってました。ロータリーでの会合はまことに楽しいものでございました。こんなわけですから、気のそぐわないお話をいただいたなぁ、と思ったわけでございました。

 その後、正之先生が健康を損なわれたことがわかり、大槻さんは実は早くから正之先生の健康を心配しておられたことがわかり「うかつだった」と感じておりました。鈴木守先生に酒席でお目にかかった時、自分がうかつだったと話しましたら、「小児科先生に酒を飲ませるな、飲ませるな、と俺なんかしょっちゅう言われていたんだ。まぁ、一杯。」と銚子をとって、私についでくださいました。何か、はりつめていた気持ちがとけたような感じになりました。

 正之先生は、やがて酒量を減らされ、ウーロン茶になり、ウーロン茶で宴席を盛り上げてくださっており、「お酒をいかがしますか。」とお尋ねしても「これだ。」とウーロン茶で節制しておられました。

 お二人は、お互い深く理解しあった、すぐれた友情に結ばれた盟友でいらっしゃいました。守先生には、「自分でやる時はやる人だから、あれこれ思いめぐらすな」ということを教えていただいたと思っております。正之先生のお別れの会の時、守先生は情熱にあふれた弔辞を読まれました。身内で集まった偲ぶ会での正之先生のお話を偲びながら、守先生は、一席を過ごされました。これからは、守先生にお元気でいただきたいと思いました。私は自ら感じるところがありまして、いささか守先生から身を引いておりました。守先生に「私は、身を引いていました」と申しましたら、「わかっていたよ」と言われました。それを最後に亡くなられました。正之先生は、大正15年9月16日の生まれ、守先生は大正15年11月16日の生まれで、2ヵ月ほどしか違わないお生まれであり、おそらくご一緒にずっと過ごされてきたのだと思います。お亡くなりになる時もあいついでお亡くなりになられ、どう受け止めていいのか、私にはわかりません。お二人の先輩が亡くなり、お二人が敬愛しておられた田中さんも亡くなられまして、非常につらい思いであります。

『偉大な三氏を偲んで』  阿久津 肇ガバナー
 ただ今、三人の方から在りし日を偲んだ素晴らしいお話を聞かせて頂きました。立て続けに文字通り三人の長老を失い、福島クラブは深い悲しみと虚脱から未だ抜け出す事が出来ません。そしてお三方のいろいろな思い出は、クラブのさまざまな行事の度に追憶されるものと思いますし、またそうあるべきものと確信致します。

 これからは偉大な先達が私達に残された数多くの事を、時間をかけて一つ一つ思い起こさねばならないと考えます。今後は福島クラブが名実ともに2530地区の中心にあって、その責任を果たしていく事が報いになると思っています。そして誓いを新たにする事が今日の追悼例会の意義であると思います。


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