田中さんが亡くなられてから早いもので、1ヵ月余りになりました。
今にも手を振りながら、ひょっこり出てこられるような気がしてなりません。亡くなられるちょうど一週間前の3月13日に、佐原ガバナーと私が病室に呼ばれ「超我の奉仕賞」を受賞されたことを大変喜ばれ、感謝の言葉があり、お礼として地区に多額の寄付をいただきました。これはいずれ田中基金として地区で保管することになると思います。1週間後に亡くなられるとは、その時夢にも思いませんでしたが、しかし疲労の色は濃く、佐原ガバナーと私に話しかけられる中に何か決意をされたような気配を感じました。
私が福島ロータリークラブに入会したのは、1977年ですから既に25年になりますが、田中さんと特に身近にお話をするようになったのは、1983〜84年度田中さんが地区ガバナーに就任され、その年私がクラブ幹事を努めた頃と思います。
当時田中さんは、61歳ですから今からみますと大変若くしてガバナーに就任されたのであります。私は古希ですから、10年近く遅い就任になります。この時の思い出も数多くありますが、時間の関係で省略します。
その後1987〜88年度、まだ山形と同じ253地区の時代に、地区のロータリー財団推進小委員長予定の方が、年度直前になって突然体調不良のため医師の診断書を添えて辞退されるというハプニングがあり、当時PGとして地区の財団委員長をされていた田中さんは大変困惑され、私になんとか引き受けて欲しいと要請があり、その年ロータリー財団推進委員長を努めました。私が地区の仕事をするようになったのはこの時が最初でしたので、印象深く記憶しています。
そして次の年度から同じ財団の奨学金・学友小委員長を4年間務めることになりました。これは経験のいる大変苦労の多い死後で、緊張の連続でしたが、それなりに勉強になりました。国際協議会での研修の時にもこの時の経験が役にたちましたので、改めて田中さんの親心を遠くアナハイムで感じた次第です。
私は2000年1月20日、福島ロータリークラブの臨時理事会でクラブのガバナーノミニー推薦書に受諾のサインをしましたが、この決意をさせたのは田中さんの長い間の説得があったからであります。
いま思い出してみても忘れられないのは、田中さんがある夜、私の自宅に来られ、私と家内を前にして、もうタイムリミットがきているので、何とか決断をして欲しいとガバナー就任を強く懇請されたのです。
そのロータリーへの切々たる心情と熱意、そして福島ロータリークラブからガバナーを出したいというクラブに対する限りなく熱い思いを諄々(じゅんじゅん)と説かれました。聞いている私の胸も熱くなりました。
それまで一開業医で患者をかかえている身ですので、到底無理なこと、またロータリーの知識不足、精神的にも余裕がないことから再三固辞していたのですが、その夜ついに覚悟を決めざるをえなくなりました。
その夜の田中さんとの出会いがなければ、私のガバナー就任はなかったと思います。
そうした私のいわば苦渋の選択の気持ちを重々察しておられて、昨年11月東京で行われたガバナー会には、私の電車の切符まで手配をされ、会場では日本のロータリーの長老といわれる方々のところに連れていかれ「今度ようやく私の福島ロータリークラブからガバナーが出ることになりました。よろしく。」と紹介され、私は緊張のし通しでしたが、田中さんが本当にうれしそうな様子だったのを昨日のことのように思い出します。
アナハイムの国際協議会から帰国し、地区チーム研修セミナー、会長エレクト研修セミナーを終了し、その都度報告に病床を訪ねると応援できなくて申し訳ないと言われていました。私も、今後いろいろ相談をしたり、ご意見を伺ったり未熟者を支えていただきたいと思っていましたが、それも今は叶わず残念に思います。
この後地区協議会が終わると、7月1日から任期に入りますが、7月9日喜多方クラブよりいよいよ62クラブの公式訪問は、ガバナーにとりある意味では、僧侶が修行のため各地を巡る「行脚」であると思っています。
一つ一つのクラブを訪れ、多くの人と触れ合い、語り合い、ロータリーへの理解を求め、そして自己研鑽を重ねるものだからです。
四国巡礼では、同行二人(どうぎょうふたり、またはににん)と記した笠をかぶり、たすきをかけて霊場を巡り歩きますが、これは巡礼は一人でなく、いつも弘法大師と一緒だということのようです。田中さんは浄土真宗ですが、これと同じように
「一人いて喜ばば、二人と思うべし。その一人は親鸞なり」という言葉があります。
私は、いま数々の思い出を胸にして田中PGと一緒に同行二人の心で、約4ヵ月にわたる公式訪問を成し遂げたいと思っています。
改めて田中PGのご冥福をお祈り申し上げます。
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