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(子供の頃)
私は昭和18年3月の生まれで、戦争の体験はありませんが戦後の食糧難は身にしみている世代です。
生まれ育ったのは信夫郡平野村、現在の福島市飯坂町平野で、当時はまったくの「ざいご」でした。子供の頃を振り返ると、反抗心が強く、屁理屈を言っては親を困らせる「かすかだり」でした。実は今でもあまり変わっていないのですが。勉強に追われることもなく、今頃であれば稲刈り後の田んぼで暗くなるまで野球を楽しみ、家に帰っては調子の悪いラジオをたたきながら笛吹童子や紅孔雀に胸をわくわくさせるといった実にのんびりした毎日でした。平野小学校では、子供達が騒ぎすぎて授業にならず、私も廊下に立たされ先生のビンタで顔が膨れたこともありました。今なら学級崩壊とか教師の暴力とかで大騒ぎでしょうが、当時はおおらかなものでした。
その後、飯坂中学、福島高校を経て慶應義塾大学の経済学部に入りました。最初のうちは都会生活に慣れるのに精一杯で、都会出の友人が朝日ジャーナルを手に政治や経済をかっこよく論じるのをまぶしく眺めていた記憶がございます。

(日銀勤務)
昭和40年、日本銀行に入りました。強いて動機といえば加藤寛先生のゼミで経済政策を勉強したことでしょうが、はじめにお会いした人事課長が「戦艦大和の最期」の著者として有名な吉田満さんという方で、その人間的な魅力にひかれ、なんとなく入ったという感じもあります。この方に限らず、日銀では多くの優れた先輩、同僚、後輩に恵まれました。
いろいろな仕事を担当しましたが、銀行や証券会社との取引とか産業界の調査等が多かったように思います。地方勤務も関西や九州を中心に結構やりましたが、東北は秋田だけで、残念ながら福島支店の勤務はありませんでした。また、外向きの仕事が多かった関係で、金融界に限らず、一流の経済人や経営者から直接その経済哲学や人間味などを学ぶことができたのは望外の喜びでした。

(大阪銀行協会勤務)
平成4年、福岡支店長を最後に日銀を退職し、大阪銀行協会に入りました。ここは手形交換などの現業や庶務を処理する銀行界の裏方です。8年余りおりましたが、その間大きな揺れを2回体験しました。
まずは物理的な揺れ、平成7年1月の阪神淡路大震災です。当時私は、芦屋市の高速道路が倒れた近くに住んでおりました。その揺れたるやそれまで経験したものとはまったく違い、まさに生きた心地がしませんでした。家財道具が壊れたほか、電気や水道などが復旧するまでの2カ月半、大阪市内のホテルで仮住まいを余儀なくされました。しかし、私のマンションは何とか持ちこたえ、けがもしないで済みました。近所では結局3軒に2軒は家を立て直したことからして、自分はつくづく幸運と感じました。また、運良く助かった者としてこれからは人さまのお役に立つよう生きて行かねばという殊勝な心がけも抱くようになりました。
二つ目は経済的な揺れです。地震から2カ月後、オウム真理教のサリン事件が発生し、景気は一段と悪化、金融システム不安の問題が出てまいりました。実際、関西ではいくつかの金融機関が破綻しました。銀行協会としては事務的な作業をするだけですが、金融システムという普段は誰も意識しないメカニズムが動揺すると、世の中いかに大きな混乱が生じるか、実感させられました。

(再び福島)
今年の4月故郷に戻りました。私は40年ぶり、妻は30年ぶりになります。福島銀行の松本社長から銀行経営の手伝いをして欲しいと頼まれたのがきっかけです。私はいつか金融以外の仕事をしてみたいという淡い夢を抱いておりましたが、頼まれてやるのは男子の本懐ではないか、福島を営業基盤とする会社で働くのは先祖代々お世話になってきた地元への貢献にもつながるのではないかと考え、ご要請に応じた次第です。なにぶん福島銀行の知識は皆無であったうえ、長い間福島を離れていたこともあり、まだ何も分からないというのが正直なところです。しかし、ありがたいことに、そんな私を皆さまは大変温かく迎えてくださいました。日本経済なかでも地方の経済は大変厳しい状況にありますが、私も全力を尽くしてまいりたいと存じます。よろしくご指導、お力添えのほどお願い申し上げます。
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