初めまして、私は「ハッピーチエ」です。
最初このスピーチのお話をいただいた時は、喜んでいたのですが、後になって考えてみますと私のような無学の人間が、ロータリーの皆さまに何をお話しできるかと思いました。が、年のせいで恥ずかしさは全部忘れましたので、30分間お話しさせていただきます。
私は福島で生まれましたが、小さい頃は大変貧しかった思い出があります。当時、小学校の入学式はリンスの袴でしたが私だけは木綿だったとか、皆のクレヨンが12色であったのに私のは6色で、運動会の駆けっこの賞品に12色のクレヨンを頂き嬉しかったことなどが思い出されます。おじいさんが大変な大酒飲みで、毎日徳利を持たされて1合の酒を買いに行かされ、お酒のお金は惜しみませんが、学校の費用となるとこれはなかなか出してはくれません。帳面代4銭を貰うにも、「朝言うんでない」「夜言うんでない」と渋るような状況で、「鬼の手から豆を貰う」ようなものでした。
夏休みの宿題は先生が謄写版で掘って出されており、小学校5年生の時、その紙代として15銭が集められたのですが、4銭の帳面代ですら渋る状況でしたので、「15銭を払んねば、払んねば」とは思いながら言い出せませんでした。とうとう、女1人、男が4人ほどでしたか教室に残され、明日15銭を持ってくるように言われました。今は笹谷小学校の体育館が建っていますが、当時は、その場所に大きな樫の木があり、そこにボンヤリと立ち、同級生が遊ぶのを眺めていました。あの時の困った事はこの年になってもいまだに忘れることができません。誠に情けなかったです。樫の木には秋になると「じんだ」(どんぐり)がなるように、私もいずれ実がつく人間になろうと誓いました。
笹谷小学校の樫の木を見るたびに、あの時の悔しさが思い出され、いつかは返したいと思って、とうちゃんと結婚する時も「私には借金がある。この借金を返す時に文句を言われるのなら結婚しない」とも言いました。その後、働いて働いて貯金しましたが、3人の子供に恵まれ、この子たちの学費に備えてと貯金は使わずにきました。子供も大きくなり、「かあちゃんが死んだら、この10万円を笹谷小学校に持っていくんだぞ」と常々言っていましたが、娘に「あんたなんで自分が働いて貯めた金を自分で持って行かず、子供に持っていかせるのか」と言われ、遂に昭和61年2月25日に返しました。48年もかかった借金の返済でした。その時の笹谷小学校の校長先生が、「あなただけではない。この時代はこのような子供が何人も泣いたに違いない、よく返してきました」と賞状を頂戴しました。苦労、苦労の連続でしたが、返すことができ、今は笹谷を大手を振って歩くことができます。
何か役に立ちたいという思いから、ちんどん屋を始めたんですが、こんな格好ですので太鼓を思いっきりはたいてしまいます。とうちゃんが「なんだ!おっかぁ、おめぇの太鼓はそりゃぁ、だめだぞ」と言われ、笹谷の町内会に声をかけ同じ年代の人を集め「ボランティアちんどんハッピー会」の旗揚げとなりました。衣装は布団屋さんから布団皮を安くわけてもらい、毎日縫って、縫って、縫って作り上げました。
ラジオ福島にでた時にプロデューサーの小峰さんから「チエちゃんまた来てみないか」と誘われ、毎週お喋りすることとなりました。神さまと出会ったみたいでした。よく「年をとったら、何が幸せか」と聞かれますが、年をとると体の節々も痛くなり、何も良いことはありません。スタジオで鏡田さんと話すのが何より楽しみで、絶対にやめないでおこうと思ってます。ラジオのおかげでちんどん屋の依頼も数多くなり、お話があったところへは必ず行っております。
チエちゃんのラジオを聞いて運転したら、対向車の運転手も笑っている、きっとチエちゃんのラジオを聞いてると言われ、皆さんに楽しんでもらっているかと思うとこんな嬉しいことはありません。
21世紀はこれまでよりも楽しく「あのばっぱまだ死なないで、派手な着物を着て出てきている」と言われるようなちんどん屋をやりたいと思っております。私の幸せでもあり喜びでもあります。
長い夢 今度あゆむは 大手ふる
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